月日が経って(日野 明子 様)
変わった出会い
柴田慶信商店との出会いは大学の授業だ。大学では大館の曲げわっぱの指導もされた工業デザイナーの秋岡芳夫先生に教わったので、講義内でその仕事ぶりを知る、というちょっと変わった出会いだった。授業の中で、曲げわっぱの美しい手仕事に感動したが、学生の身分では自分で使おうという発想には至らず、“単なる美しい工芸品”とだけ見ていた。その後、秋岡先生の影響もあり、日本のクラフト品を扱う小さな商社に入社した。配属は都内の百貨店の営業職だったので出張の仕事はなかったが、最初の夏休みは岩手・手仕事紀行を計画。最初に向かった先は光原社。光原社といえば、民藝を愛する人、手仕事に興味のある人が必ず行くところだ。
寸胴でユーモラス
初めて訪ねた光原社は、一歩、足を踏み入れた途端に、外とは別次元の時が流れていた。完璧なまでに客をもてなす心遣いが感じられる展示と空気に、思わず緊張した。別棟の喫茶店でコーヒーを頂き、屋外の宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」の壁を観た後、もう一度、店内を見直した。少し冷静になると、柴田さんの「きこり弁当箱」が目に入った。実は柴田慶信商店の品は、勤めていた会社で扱っていたのだが、光原社のショーケースの中だと、特別感が増して見えた。女子としてはちょっと大喰らいのわたしにはちょうど良い大きさと、寸胴でユーモラスな形。会社では気づかなかった良さを認識したのは、光原社のおかげ。その時の財布事情からすると、少々勇気のいる金額だったが、思い切って手に入れた。そして、「素敵な場所で手に入れた、いい弁当箱を使っている」という誇らしさを感じながら、毎日、弁当を詰め始めた。ある時、ケチャップソースのハンバーグのような、色がつきそうで、汁沢山で、曲げわっぱには向かないおかずしか入れるものがなく、仕方なく、もともと使っていたプラスチックの弁当箱を使った時だった。いつもは何気なく食べていた米が、密閉されたプラスチックで蒸れている上、蓋を取った瞬間、樹脂独特の匂いが鼻をついた。毎日、当然のように、曲げわっぱの弁当箱で食べていると気づかなかったのだが、無塗装の白木の弁当箱は、ご飯の水分を調節して、美味しい状態にしてくれていることに愕然とした。お弁当の半分を占めるご飯が美味しくなければ意味はない。それ以降、人に弁当箱のことを聞かれると、もし、食べ物のシミや汁気を気にするなら、おかずは樹脂やアルミなどの密閉容器に入れるのが良いだろう。だが、米だけは、絶対に、白木の弁当箱にすべきだ、と力説するのだった。
会社勤めを辞めた後はきこり弁当箱は、入れこの部分を外し、2食分ぐらいのミニお櫃として活躍している。薄い板を丸めた曲げわっぱは、乾燥する冷蔵庫に入れても問題ないので、室温が高くなる夏は冷蔵庫に入れて、安心して外出できるのも嬉しい。
重曹万能説が
せっかくなので、おまけのエピソードを一つ。「台所道具のお手入れ」の本を上梓している。担当の至田玲子さん、編集者の土田由佳さんのアイデアで、「大丈夫なことと、してはいけないことアイコン」をつけることになり、結果、このアイコンが一眼で分かって便利、と好評だ。「冷蔵庫がOK」であることも、この本の校正の時、再確認したことだ。入稿直前に、柴田さんから連絡があった。「重曹をダメと、入れてください!杉がアルカリに反応して青くなります。でも、青くなったら、お酢など酸性のものに漬ければ、戻ります」と、言われ、慌てて「重曹は×」と、加えた。「重曹万能説」があるが、万能では無かったか……と自分で試したところ、言われたとおりになり、びっくりしたものだ。
その後、連載を持っている「暮しの手帖」で、このエピソードを書いたところ、読者の方から「使っていた弁当箱を青くしてしまって、途方に暮れていたところ、重曹のせいだとわかった」と、連載記事が役に立ったことのお褒めを頂いた。今でも何かと、悩むことがあると柴田さんを相談所として使わせていただいている。苦情を恐れて、汚れも封じ込めるが、木の良さを封じ込めるウレタン塗装が主流だった時代でも、頑なに木の力を信じ、白木の良さを広めてくれた柴田さん。姿美しく、使ってよし、の品物を作り続ける柴田さん。これからも頼りにしてます!